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【岩男】「な…に…?」

 手応えはあった。
 身体を前傾に移動させざま、そのスピードに体重を乗せて、膂力として一気に放つ。

 ボディに下からえぐるように突き上げた右拳は、たしかに薫の細い肢体をとらえたはずだった。

 この一撃で黙らせるつもりだったのだ。

 しかし。
 岩男に伝わったのは、異質なもの。――人の肉が生じさせるようなものではなかった。

 ゲームセンターの端などによく置いてある、パンチングマシンを殴りつけたような、と例えればいいのか。

 そんな、およそ想像してもみなかった、奇妙な手応え。

 しかも――。

【岩男】「……おまえ…!?」

 岩男の渾身の打撃を受けながら、薫は微動だにした風もない。

 その直前、己のリーチが届くよりも早くに、薫の唇が何事かを紡ぐように動いたのに、岩男は気付いたかどうか。

【岩男】「おまえ…おまえは…『何』だ?」

 身体が動かない。
 薫に接している拳を離すこともできない。

 心身ともに麻痺し、この懐のなかの青年に魅入られでもしたかのように。

 岩男の身中に戦慄と呼べるものが疾った。
 生まれて初めて経験する感情だった。

 薫は、晴れやかな笑みを浮かべてみせる。
 およそ場違いで……なのに、ぞっとするほど――美しい。

【薫】「ただの転校生…クラスメイトだよ」

【薫】「……正直僕は嬉しいんだ…」

【薫】「これまでの、周囲のまるで違う生き物をでも見るかのような、過剰な反応――いい意味でも悪い意味でも――にはもう慣れっこだけど…」

【薫】「この学校、このクラスはちょっと違うみたいだ…。同じ目線、同じ生徒のひとりとして見てくれる」

【薫】「…そして君みたいに、自分にできる自分なりの方法で接してくれる者もいる。たとえそれが暴力であったとしてもね」

【薫】「腕っぷしが自慢なんだろう? だからそれで僕をひねろうとした…」

【薫】「いいね…いい感じだよ」

【薫】「さすが…言霊使いが集ってくる学園だけはある」

 薫は心底嬉しそうに、つぶやいた。

【岩男】「ことだま…つかい……?」

【薫】「それに…言霊――あるいはランガージュか――について知らなくたって、君みたいに常識はずれにすごすぎる一般人だっている」

【薫】「人間、そこまで辿り着けるんだねえ。真面目な話、君はたいしたもんだよ。ただ、言霊使いじゃないってだけさ」

【薫】「それに言霊を使えたからって、偉いわけでも何でもないしね」

【岩男】「なん…なんなんだ、その、『言霊』とかいうのは…」

 岩男はかすれた声を漏らす。
 これが自分の声であるとは思われないような、弱々しい響きだった。

【薫】「物事の…あらゆる事象の本質だよ」

【薫】「まあ…言霊使いのみんながみんな、言霊という概念を明確に意識して力を行使しているわけじゃないだろうが…」

【薫】「知ろうが知るまいが、本質は本質――語る言葉を得なくとも、物事を理解することはできる。理解する側面、やり方だってさまざまだ」

【薫】「その、物事の根本の原理を、勝手に言霊と呼んでいるにすぎない」

【薫】「簡単にいえば、そういうことだよ」

【岩男】「簡単? …さっぱりわからねえ…」

【薫】「ランガージュは…まあ、言霊と同義だ。違う部分があるとすれば……」

【薫】「……」

 ここで、薫はふいと興味を失ったように息をついだ。

【薫】「……ま、どうでもいい話だ。君には関係ないことだしな」

【薫】「さあ、次は君の番だ」

【岩男】「……?」

 す…、と薫の両腕が動いた。
 あまりに自然な軌跡で、それは鳥のはばたきを連想させた。

 薫の掌が、左右から岩男の拳に添えられる。
 腹部のところで、大きな拳を抱えるような格好だ。

 岩男のごつごつした皮の厚い手に、白すぎる薫の指が重なった。

【岩男】「………ぅ…」

 薫はそのまま、くい、と姿勢を前のめりに傾けて、頭を岩男の顔近くまで持っていく。

【薫】「ひとつだけでいい。たったひとつだけ、聞きたい」

【薫】「白鷺涼(しらさぎりょう)は何処にいる…?」

【岩男】「白鷺? 誰だ…それは…?」

【薫】「この学園にいるはずだ。綺麗なひとだ…知らないか」

【岩男】「悪いが知らねえ…。この学園にはそんなやつはいない」

【薫】「……」

 薫の双眸が上目遣いに岩男を見る。
 心まで見抜かれそうな、透徹とした目だった。

【岩男】「タイマンで負けたんだ…この上嘘まではいわねえよ。それが俺道よ」

【澪】「タイマン……。やっぱり熊野くん、そういう人なんだなあ…」

 澪は成り行きを心配そうに見守りながら、それでも思わずそういってしまう。

【岩男】「しかし、おまえ…」

【岩男】「いまが一番真剣な表情(かお)になってるぜ…それが本当のおまえってわけか」

【薫】「それはどうも…。僕たちいい知り合いになれそうだね」

【岩男】「友達じゃなくな」

【薫】「そうだね。ただ…僕にはよくない癖があってね…」

【岩男】「それはいけねえ。うん、悪い癖は直さないとな」

【岩男】「でよ…ものは相談だが、もう勝負もついたことだし…そろそろ、開放しちゃ…」

【薫】「どうも僕は、いただいたものは、お礼も含めて、たっぷりとお返ししないと気が済まない性分なんだ」

【岩男】「はは…いい癖じゃないか。うん、いい癖だ……」

【薫】「……」

【岩男】「……」

【薫】「……」

【岩男】「……やっぱり駄目っスか?」

 薫、無言でうなずく。

【岩男】「……駄目駄目でスか?」

 こくこく。
 二度うなずく。

 薫の眉が少しだけつり上がっている。
 結構怒っているらしい。

 薫の手が離れた。
 と、岩男の身体ががくりと沈み込む。

 まるで拳が碇になって、すさまじい重さにでも変じたように岩男には感じられた。

 催眠術にでもかかったようだ。

 抵抗もできず拳に引っぱられるように上半身が流れる。

 薫が自分の腰くらいの高さに何気なく差し出した人差し指が、落ちていく岩男の頭部、顎のあたりをかすめた。

 傍目には岩男が自ら出された指に当たりにいったようにしか見えないのだが。

 その指の感触を知覚した瞬間、何か得体の知れない衝撃が頭蓋を駆け抜け、脳天を突き上げた。

 そしてそのまま、岩男の意識はすみやかに彼のもとを去っていった。

 …。

 ……。

 ………。

     ・
     ・
     ・

【澪】「ああ、ご主人さま…やっぱりやっちゃった……」

【薫】「知らないよ…降りかかる火の粉を払っただけだ」

【澪】「払い過ぎだよ」

 頭を抱える澪を一瞥して、薫はたいした感慨もなさそうにふぅと息をはく。

 すぐそばでは岩男がのされて地面にのびている。

【澪】「もう、喧嘩するためにここに来たわけじゃないんでしょ」

【薫】「必要とあれば手段は選ばない」

【澪】「もう、これじゃただの弱い者いじめだよ。ご主人さまに勝てる人間なんてボクには想像もつかないよ」

【薫】「それは買い被りだよ」

【薫】「…特にこの学園なら、尚更だ」

 薫は意味ありげに表情を変える。
 それはまるで何かを楽しんででもいるかのよう。

【澪】「はぁ、どんな顔がそんなこというんだろう。いっぺん頭のなかが見てみたいよ」

【澪】「あの、熊野くんは…どうなの……?」

【澪】「もちろん、大丈夫……なんだよね…?」

【薫】「どうって…うるさいから黙らせただけだよ。放っておいても、しばらくすれば気が付くだろう」

【澪】「そう…よかったぁ」

 岩男の方に心配そうな目を向けていた澪が、ほっとした表情を作った。

【薫】「いや…よくはないね」

【澪】「え?」

【薫】「因果応報という言葉…知ってるだろう」

【澪】「いんがおうほう……え、それは…わかるけど」

 嫌な予感にとらわれて、澪は薫を見る。

【薫】「要は倍返しってことさ。それなりの落とし前はつけてもらう」

【澪】「ええーッ! ちょ、ちょっと待ってよ。熊野くんはもうタイマン?で負けたんだよ。もうこれ以上はいいじゃないっ」

【薫】「こいつ、躊躇なく本気で撃ってきたぞ」

【薫】「僕じゃなかったら、いまごろ立場は逆になってたところだ。それもより陰惨にな」

【澪】「ご主人さまの方が陰惨だよー。ね、もういいじゃない?」

【薫】「……」

 ……。

 薫は澪と岩男に交互に視線を落とす。

【薫】「ふぅ。…いってみただけだ」

【澪】「えっ?」

 澪は瞬間、ほうけたような顔になって、きょとんと立ち尽くす。

【薫】「だから、いってみただけだ。面倒なことは嫌いなんだ。余計なことは」

【澪】「あの…ホントに…ホント?」

【薫】「…ああ」

【澪】「冗談でもなくて?」

【澪】「ボクを油断させといて、後ろを向いたところで熊野くんをザックリいったり…しない?」

【薫】「おいおい…おまえの方がよっぽど陰険だぞ」

 薫は肩をすくめると、岩男に背を向けた。

【澪】「よかったぁ〜〜〜」

 澪は心底安堵の声を漏らした。

【澪】「ご主人さまがいうと…全然冗談に聞こえなくて……」

 安心したのか、澪はうっすら涙さえ浮かべていう。

【薫】「ふん…聞きたいことは聞いた。後はどうでもいい」

【澪】「ご主人さま……」

【薫】「うん…?」

【澪】「ううん……なんでもない」

 澪はいおうとした言葉を呑み込んだ。口に出してしまえば、また薫が何かよくないことをいいだしそうな気がしたからだ。

 ――ご主人さま、なんだか少し優しくなったような気がするよ……。
 なんて。

 以前の薫なら、こんな場合、もっと手ひどい痛撃を与えそうに思う。
 それが気絶させただけであっさり済ませている。

【薫】「何が嬉しいんだ、澪?」

【澪】「なんでもないよ」

 知らずにこにこと笑みを漏らしていた彼女に、薫の不審げな声が飛ぶが、澪は気にしなかった。

     ・
     ・
     ・

【薫】「…もういいだろう…帰るぞ、澪」

【澪】「あ…うん…」

【澪】「…って、ちょっと待ってよーっ」

【薫】「何?」

【澪】「このまま帰っちゃって…熊野くんはどうするのさー?」

【薫】「さあ?」

【澪】「さあ?って…」

【薫】「夜になる前には目が醒めるだろう。別に死んでるわけじゃないんだ…手は抜いたし」

【薫】「それ以上のことは知らないよ」

【澪】「知らないって……いいのかなあ。……人として…」

【薫】「介抱までしてやる義理はないね」

 薫はもうこの話はおしまいとばかりに、さっさとその場を後にする。

【澪】「あっ……ご主人さまぁー」

 澪はしばらく岩男と薫の後ろ姿へ逡巡するように瞳をさまよわせていたが、結局――。

【澪】(ゴメンね、熊野くんっ)

 胸のなかで不幸な大男に手を合わせると、薫の背を追いかけていった。

 そして体育館裏には騒々しい物音を撒き散らす者はいなくなり、本来の静けさがそれに取って代わった。

     ・
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■生徒会室−放課後

 ……。

 室に射し込めていた西日も、気付かぬうちにずいぶん傾きを増していた。

 それだけ議論、というか会話に熱中していたということになる。

 話しているのは女の子ばかりだが。

 生徒会室はさして広い部屋が割り当てられているわけではないが、主に室を使用する役員たちの人数を考えれば、過度に不当ということもない。

 ドアを入れば、すぐ目の前には十人はぐるりと並べそうな大机が鎮座し、それを挟んで対面には窓があるという、いたってシンプルな造りだ。

 生徒会には、生徒会長も含めて六人の役員が在籍しているが、うちいま室には五人が顔をそろえている。

 そのなかに女生徒は三名。

 笠岡遼(かさおかはるか)。

 法界院紫音(ほうかいいんしおん)。

 鹿島彩(かしまさい)。

 遼、紫音はともに二回生。
 彩は一回生である。

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1999 (C)Cyberworks co. / TinkerBell 「Voice〜君の言葉に僕をのせて〜」