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【薫】(澪には黙っておくか…)【澪】「ご主人さま…なんかさっきから変だよ…?」
【薫】「ん…いや、なんでもない」
【澪】「そお? なら、いいけど…」
【澪】「じゃあ、そろそろボクたちも帰ろうよ。教室の人もどんどん少なくなってるし…」
【澪】「たしか、寮に部屋があるんだよね?」
【薫】「ああ…。学園の敷地のすぐ近くだ」
【澪】「ご主人さまと…その……いっしょなの?」
【薫】「何が?」
【澪】「いや、あの……お部屋が」
【薫】「そんなわけないだろ。一応男子と女子にわかれているらしいな」
【澪】「そう…だよね。…というか、そうなんだね…ふぅん」
澪は感心したようにいう。
薫はそんな澪の様子を、彼にこんな目ができるのかといった、意外なほど暖かいものの込もったまなざしで見やった。
【薫】「まあ、ひとり部屋なんで、楽にしてればいいさ」
【澪】「うん…ご主人さま」
そして。
薫はちょっとあらぬかたに視線を泳がせながら、考えこむような仕種になる。
【薫】「なあ…澪…」
【澪】「なあに、ご主人さま?」
【薫】「ちょっと……学校の探検に行ってみないか?」
【澪】「え?」
その言葉に、澪は驚いて薫を見る。
その顔が笑顔でいろどられるのに、そう時間はかからなかった。【澪】「うんっ。行く、行くよ」
【澪】「でもご主人さまからそんな風にいわれるなんて、ちょっとびっくりしちゃった。だってご主人、面倒なことって――」
【薫】「うん? だからひとりでだぞ」
【澪】「――キライだし普通なら……って、えッ?」
【薫】「いや、だから、ひとり。澪ひとりで学校の探検でもしておいでってこと」
【澪】「ええ〜!? どーいうことなの、それー!」
【薫】「どうもこうも、そのまんまの意味だが。初日だし、いろいろ知っておかないといけないだろう? 学園のこと?」
【薫】「そして後でかいつまんで教えてくれ」
【澪】「もうっ、ご主人さまなんて…! せっかく…せっかくいずみちゃんの誘いも断ったのに……」
【薫】「せっかく?」
【澪】「なんでもないよぅーだっ」
怒っていることを示すように、澪はべ〜と舌を出した。
本人の意図に反して、なんともかわいらしい振る舞いに見えてしまうのは御愛敬だが。
【薫】「そういうことだから…頼んだぞ」
薫はさっさとそう決めると、澪の背を押した。
【澪】「はぁー、わかったよ。行ってくるよ」
澪はがっくりと投げやりに言葉を返した。
・
・
・■渡り廊下−放課後
【澪】「はぁ、なんなんだよぅ、いったい…」
澪は渡り廊下を行きながら、頬をふくらせている。
澪たちのクラスがある建物から、その隣へ。
たしかこちちには、図書室や美術、工作室などの設備が集っていると聞いていた。まず自分のクラスがある校舎の方をまわっていたので、すでに下校時間が近かった。
文句をいいながらも、真面目に見てまわってしまうあたりが、澪らしいとはいえたが。
【澪】「うう、ご主人さまのばかーっ」
ここからは校舎に挟まれた中庭を見渡すことができる。
斜め上方から俯瞰する格好だ。夕暮れも近い。
陽の光が薄く射し込み、建物が影を落とす中庭に、人の姿はない。澪がなんとなく足を止め、そちらを見下ろしていると…。
【女性の声】「あら…鳳さん……」
不意に声をかけられた。
【澪】「わっ、わわっ…」
少し物思いに沈んでいた澪は、それこそ大げさなくらい驚いて、振り返った。
【澪】「あ…ええと……」
澪はその女生徒に見覚えがあったが、名前は知らない。
多分同じクラスだったはずだ。【沙羅】「法界院沙羅です…よろしく」
【澪】「あ、法界院さん…。うん、よろしく」
【沙羅】「沙羅でいいですよ。学園には法界院という名字の人間、もうひとりいるんです」
【澪】「そうなんだ。じゃあ、沙羅さんって呼ばせてね」
【沙羅】「「さん」付けですか…まあ、いいですけどね」
なぜか苦笑して、沙羅はいった。
結構こういうことをいわれ慣れているのかもしれない。【澪】「うーん、だって、なんだか沙羅ちゃんていう雰囲気じゃなくて…」
【澪】「すごく奇麗だし、大人びてるし……」
【沙羅】「そうですか? 自分ではよくわかりませんけど…」
【沙羅】「でも、こういうことはまわりの人が決めることのようにも思いますし、鳳さんがそういうなら、そうなのかもしれませんね」
沙羅の物腰は柔らかい。
澪はちょっとあこがれさえこもった目で沙羅を見る。【澪】「沙羅さん、自分だって“さん”付けだよ。鳳さんって。それにこの学校には、鳳の名字の人間、ふたりいるんだよね」
【沙羅】「そうでしたね」
沙羅が笑顔になる。
【澪】「だから、ボクのことも澪でいいよ」
【沙羅】「でしたら、澪さんですね」
【澪】「うーん…まあいいんだけどね…なんだか沙羅さんにそう呼ばれると、おもはゆいようなくすぐったいような…」
【沙羅】「ふふ、もっと呼んであげましょうか?」
【澪】「ええ、い、いいよう。もう、みんなボクをからかって遊ぶんだから…」
【沙羅】「澪さんが素直でかわいいからですよ」
【澪】「え、あ、や……もぉ、からかわないでよー」
【沙羅】「ふふ…」
【沙羅】「でも、鳳くんと澪さんを間違えるなんてことはないでしょうから、本当は好きなように呼んでいいと思うんですけどね」
【澪】「うん、まあ、いわれてみるとそうだね。ご主人さまは男だから、鳳くん、でいいわけだし。だったらボクが鳳さんでも全然問題ないや」
【沙羅】「鳳さん、の方にしようかしら?」
【澪】「ええ…うーん……やっぱり澪の方がいいな。名前で呼んで欲しいよ」
真剣に考えて、澪は答える。
そんな澪の様子に、沙羅は微笑んで目を細めた。
【澪】「ん? あれ…だったら、沙羅さんの…もうひとりの法界院さんっていうのは…見分けがつかないの?」
【沙羅】「そうですね…話せば全然、似たところなんてないと思うんですけど…見た目はそっくりかもしれませんね」
【澪】「お姉さんとか…妹さん?」
【沙羅】「双子の妹です。血はつながってませんけど」
【澪】「双子なんだ…って、血はつながってない双子?」
興味しんしんといった感じで、澪は沙羅をしげしげと見つめる。
【沙羅】「そのあたりは……秘密です」
【澪】「そ、そう…」
【澪】「あ、もしかして訊いたらマズかったかな? あぅ〜、その……ごめんなさいっ」
【沙羅】「いや、全然かまわないですよ。ほらほら、そんな謝らなくても……」
いきなりぺこりと頭を下げた澪を見て、沙羅はちょっとびっくりしながら、それでも安心させるようにいった。
【沙羅】「なんだか…こうしてみていると……鳳くんは澪さんの保護者みたいですね」
【澪】「それってボクが子供っぽいってこと?」
【沙羅】「さあ…どうでしょう」
沙羅は澪に優しいまなざしを向ける。
【沙羅】「でも、いまはいっしょじゃないんですね…ご主人さまと」
【澪】「そんなんだよー、ご主人さまったらひどいんだよ。…まあ、いつものことだけどさ。ご主人さま、面倒くさいことはいつもボクに押し付けるんだ」
【澪】「あの容姿に騙されたらダメだよ。ご主人さま、すごい怠け者なんだから」
【澪】「頽廃的…っていうの? そういえば聞こえはいいけど、要は不精者なんだよ。相手する方はたまんないよ」
【沙羅】「そうですか? そういいながらもなんだか楽しそうですよ。それにとっても“付き合い”も長そうですし」
【澪】「そんなことないよ〜」
澪は掌を胸のあたりでひらひらさせて、身振りまじりで否定する。
【澪】「ふぅ、どうせいまごろ、寮に帰って寝こけてるんじゃないの」
【沙羅】「あら…。鳳くんならさっき見ましたけど? 図書室の窓から見えましたよ」
【澪】「え?」
【沙羅】「図書室は二階にあって、体育館が見渡せるんですよ。鳳くん、そちらの方に向かってましたよ?」
【澪】「体育館に?」
【沙羅】「はい…」
【澪】「……なんでそんなところに……」
【沙羅】「澪さんにわからないんでしたら、わたしにもわかりませんね」
【澪】「……」
【澪】「沙羅さん、ありがとうっ」
【沙羅】「あ…」
澪はきびすを返すと、脱兎のごとく駆け出していった。
【沙羅】「澪さん、それでは…」
沙羅はお辞儀した。
もう誰もそこには残っていなかったが。・
・
・■体育館裏−放課後
薫が指定された体育館裏にやってきたのは、すでに夕刻が迫ろうかという時刻だった。
特に遅くなった理由はなかったのだが、しいていえば、相手にいわれた通りに行動するのがしゃくだっただけだ。
当たり前だが、人影はまったく見当たらない。
そういう場所だし、そういう時間だ。【男】「よく来たな……」
体育館壁際の薄暗がりから、重い声が流れた。
【男】「……遅いから逃げたかと思ったが」
【薫】「それは悪いね。全然重要とは思わなかったから、つい後回しにして他の用事を片づけてたよ」
【男】「まあ、のこのこあらわれたことだけは褒めてやるよ。あまり利口ではないがな」
のそり、と暗がりが動いた。
そう錯覚させるほど、男の身体は大柄で、広く、強大だった。たくましい体躯が、視界の一部にゆっくりと割って入り、そして占拠した。
【男】「自己紹介がまだだったな。熊野岩男(くまのいわお)よ」
【薫】「…そう。鳳薫だよ」
【岩男】「知ってるよ」
岩男は獰猛にいう。
【薫】「頼むから告白なんてのはよしてくれよ。性別に関係なくそんなのは慣れっこだけど、はっきりいって……」
ここで薫はわざとらしく岩男の方に蔑むような視線を向けて。
【薫】「君は僕のタイプじゃないんだ。そうだね…体重をあと20キロぐらい落としてスリムになったら、考えてもいいよ」
【薫】「……考えるだけだけどね」
【岩男】「それは無理だな。俺の身体に無駄な肉なんてないんでな。全部筋肉なんだよ」
たしかに岩男のいうように、彼の身体は見るからに筋肉が厚みを誇示している。
岩男は、薫の方を見下ろすように目線を落とす。
実際、岩男の上背は相当のもので、普通なら長身の部類に入るはずの薫が、まるで子供のようにも見える。
【岩男】「おまえ…無口なやつかと思ったが…案外口が達者だな」
【薫】「ありがとう」
【岩男】「いやいや…嬉しいぜえ。さぞかしいい声で鳴いてくれるだろうよ。その分なら」
【薫】「僕の都合は考慮してくれないの?」
【岩男】「聞くだけなら聞こうか? 聞くだけだがな」
【薫】「いいね。意見が合うよ。…自分が一番大切だからね」
【岩男】「ま、御たくはもう切り上げようや」
【薫】「せっかちだなあ。せっかくの逢瀬なのに」
【岩男】「無駄な時間と暇な時間は違うからな。これも俺流のモットーよ。数少ないな」
【薫】「ますます意見が合うね。どうしてこれで仲良くできないんだろう」
【岩男】「そんなことないぜ。いまから熱烈に愛してやるよ」
【薫】「見ての通りきゃしゃなんだ。動物相手だと尚更だ…。お手柔らかに頼むよ」
【岩男】「その余裕がどこにあるのか知らねえが…それとも頭がゆるいのか?」
【岩男】「ま、これを見てからゆっくりどう謝ったら許してもらえるか考えな。…もう手後れだがな」
岩男が肩をいからせた。
そして――。【岩男】「……ふんッ!」
一息いきむと、力士がするようにやや脚を開いて膝を曲げ、大地に対して踏ん張るような体勢になる。
ミシ…ミシミシ……。
空気が重苦しくきしみをあげた。いや――鳴っているのは岩男の肉体だ。
腕を腹におさめ、呼吸を身裡におさめる。
次第に隆起し、たわみ、剛柔併せ持つ筋肉は山を作って見かけの容積を増していく。
【薫】「……」
肉体の膨張に耐え切れなくなった学生服が、ささやかな悲鳴とともに裂けて散った。
いまや、岩男の身体は、身長、体幅ともに一回りも二回りも巨大化していた。
人間業とは思われないが、まぎれもない現実だった。
【岩男】「ふぬーっ。どうした、声も出ないか?」
【薫】「いや……あまりに面白すぎて…かける言葉が見つからない。僕としたことが」
【岩男】「死なない程度には加減してやるよ。その奇麗な顔に傷が残ってお嫁に行けなくなっても、うらむなよ」
【薫】「そうなったら責任は取ってもらうさ」
【岩男】「ほざいてろよ」
その名の通り狂暴な熊さながらに巨躯をいからす、番長と呼ばれる男。
それと対峙する、美貌の転校生。
フィクションから抜け出したような、愉しすぎるシチュエーションだが、やはりこれは現実だ。
塊が動いた。
重量物に似合わない、予想外に俊敏な動きだった。ふたりの距離が瞬時につまり、重なる。
【澪】「ご主人さまぁぁーーーーっ!!」
そのとき、空気をつんざいて、悲鳴が響き渡った。
いままさに、駆けつけた澪の目の前で、最悪の事態は展開されるところであった。
薫と、もうひとり。
熊野岩男だ。澪は岩男のことはすでにクラスメイトに聞いて知っていた。
これだけ目立つ、重量級の男である。【澪】「逃げて、逃げてよぉーーー」
澪が取り乱して叫ぶ。
【澪】「ご主人さまに手を出したら…ただじゃ済まないよっ」
薫ではなく――澪はこの状況に、薫ではなく、岩男の心配をしているのか。
その真意ははかりかねたが、しかし澪の願いも、もう男たちには届く術もなかった。
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1999 (C)Cyberworks co. / TinkerBell 「Voice〜君の言葉に僕をのせて〜」